治療院ストーリー

自己紹介

院長 射水 徹(イミズ トオル)

1979年5月30日生まれ

  • 東京都中央区月島生まれ。
    もんじゃストリート育ちですが、作るのはヘタです。
    3歳頃から小学生時代まで、銀座に暮らしておりました。
    銀座というと大金持ちをイメージするかもしれませんが、昔は今の雰囲気とは違いました。
    木造建築の古い家がたくさんあったのです。
    私の家は、隙間風がピューピュー入ってくるボロボロの木造でした。
    今思えば、お風呂場の床は、地面でしたから。
    寒かった。
    ネズミもよく出ました。
  • 射水(イミズ)の由来は富山県にあります。
    富山県には射水市があり、射水市出身の方が東京に出て来られた際に名字を射水に変えたという話です。
    いまだ自分と同じ名字の方に出逢ったことはありません。
  • かめちゃんはすでに25歳です。
    小学5か6年生の頃に、デパートの屋上でかめちゃんと出逢いました。
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    実家に帰ると、近所の猫と日向ぼっこしていることも。
    かめちゃん、君はかわいすぎる。
  • 憧れは氷室京介。
    2008年からは毎年欠かさず氷室LIVEに足を運んでおります。
    東日本大震災チャリティーの全曲BOOWYLIVEもカッコよかったですが、やはり今現在のヒムロックが一番カッコイイです。
    将来はあんな50代に、自分もなりたいと思っています。
    2016年のラストLIVEは、雄姿をこの目に焼き付けてきました。
  • 趣味は、総合格闘技観戦です。
    毎日UFC情報のチェックは欠かしません。
  • 非日常体験が好きです。
    読売ランドでのバンジージャンプから始まりました。
    CCDカメラ付きでDVDにしてもらいました。
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    芸人になった気分で飛んできました。
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    気持ち良かった。
  • 毎年やっている【アクアピュアチャレンジ企画】で、アクアピュアファミリーたちと共に『滝行』にも行ってきました。
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    実際に見た目ではわからない威力があります。
    終わったあとはしばらく真っ直ぐ歩けません。脳震盪みたいな感じです。
    次は真冬に挑みたい。
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    その他、詳しくはこちらをどうぞ→
  • 【ぴゅあカイロプラクター日記】

私に力をくれるご縁に、感謝しております。いつも、ありがとうございます。

2007年5月16日。
私がここ五反田でAQUA PURE(アクアピュア)カイロプラクティックを開業した日です。
28歳になる直前でした。
22歳で治療業界に飛び込み、いつか必ず独立しようと心に決めていたことが、実現した日でした。
我武者羅に働き、勉強に時間を費やした5年間でした。

2015年7月10日。
8年間続けてきたAQUA PUREカイロプラクティックから移転するとともに、
【姿勢リフォーム整体】へと改名しました。
治療家としての、第2章がスタートした日です。
移転のことは、ずっと頭にありました。
何度かチャンスはありましたが、躊躇して動けなかったのが、実際のところです。
柔道整復師国家試験のタイミング等もありましたが、移転が延びた一番の理由は、
『動くのが怖かった』のです。
慣れ親しんだ場を離れることは、私にとっては勇気のいることでした。
今ある安定を壊すのが怖かったのです。
移転を心に決めたのは、2014年に参加したプロジェクトがきっかけでした。
自分の課題が浮き彫りになりました。
一度すべてを、土台から変える必要性を、心の底から感じたのです。
移転はそのスタートに過ぎません。
これからが本当の意味でのスタートだと、あらためて感じています。

ある本にこんなことが書かれていました。
【ご縁があれば天職になる。ご縁があるというのは、すでに実力のうちだと言ってよい。】
私にとってこの仕事は天職であり、私には実力があるということだと信じています。
私のここまでのキャリアは、多くのご縁に支えられ、築いてくることができました。
一番は、両親です。
大学4年の時、内定を頂いていた就職を、私のわがままで辞退しました。
この業界で勝負しようと心に誓いを立てた時、反対することなく受け入れてくれたのが両親でした。
本当は、私に就職をして欲しかったと思います。
心配だったと思います。
22歳から、また学生かつアルバイトの生活です。
そんな勝手を、嫌な顔ひとつせず、応援してくれていました。
二人のおかげで、今の私があるのです。
ずっと支えてくれていたことに、感謝しております。
【2007年1月:左から、母、父、僕】【2007年1月:左から、母、父、私】
【2007年6月、隣のスタバにて:左から、父、姉、僕】【2007年6月、西五反田のスタバにて:左から、父、姉、私】
まだカイロプラクティックの学校に通っていた頃、骨盤矯正の練習台になってくれたのが、姉でした。
力の入った私の施術は、怖かったと思います。
『痛い痛い』と言いながら、付き合ってくれました。
今は、会社帰りに施術を受けにきてくれます。
いつも応援してもらっていました。
ずっと支えてくれて、ありがとう。

アクアピュア立ち上げ当時、うまくいく保証のない私についてきてくれた、二人のスーパースタッフがいました。
DSCN26961【皇居RUN:当時のスーパースタッフ、左から大倉、僕、柳川】
DSCN53701【ドームホテル忘年会:左から柳川、大倉】
二人のおかげで、誰も来ない時代も乗り越えられました。
私自身がチームをどう築き上げていけば良いのかわからずにいたこともありました。
その悩みのひとつひとつが学びでした。
少しずつ、チームになりました。
今はそれぞれの違う道を進んでいます。
ずっと支えてくれたことに、ありがとう。感謝しています。

この2年間、受付スタッフとして当院を支えてくれているのが、しのぶさんです。
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昼は一般企業に勤め、仕事後に、週3回ほど来てくれています。
しのぶさんは、もともと私の施術を受けに来ていました。
通い始めて数年がたった時、「相談があります」と、人生相談を受けました。
その時のしのぶさんは、強烈な『ネガティブ』状態でした。
私はネガティブ自体が悪いとは思っておりませんが、考え方に、『思い込み』が強過ぎると、人はなかなか動けなくなるものです。
それでは、毎日がたのしくありません。
私が話を聞きながら質問することで、しのぶさんにとって、今後を考えるヒントになったのだと思います。
それから1年間、2週間に1回、朝7時から1時間半ほど時間を取り、悩みを問題とし、どう解決していくかを考えてもらう時間を持ちました。
しのぶさんはそれを『射水塾』と呼んでいました。
しのぶさん自身が、自分で見つけた答えを行動に変え、検証し、修正しながら取り組むようになったのです。
会社での営業成績が抜群に伸び始めたのは、自分で行動し始めてからでした。
『どうして岡島(しのぶさん)の営業成績が良いのか』と、会社内で、会議になったそうです。
今では私としても、仕事において最も信頼できる存在のひとりです。
「今日はしのぶさん出勤されていますか?」と、電話予約時に聞かれることがあります。
しのぶさんに会って話をするのがたのしみだと言って、来てくれる方もいます。
本当にありがたいことで、嬉しく思います。
いつも支えてもらっています。本当にありがとう。

2014年から始めた、私のセミナーに参加されたことがきっかけで、エステティシャンの香織さんもチームの一員になってくれました。
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現在、私は関節アプローチ法の講師をエステティシャン向けにしています。
そのセミナーで、参加している誰よりもタッチが丁寧で、吸収も早い香織さんに一目ぼれしました。
当時、香織さんが勤めていたエステサロンに施術を受けに行かせて頂きました。
私は2時間爆睡でした。
それ以来、定期的に香織さんのエステ施術を受けるようになり、今では私の健康管理の一環となっております。
セミナーで会うたびに、「香織さんがうちに来てくれたらいいのになぁ」と、しのぶさんに話すようになっていました。
思ったことは口にしてみるものです。
「香織さん、週1回でも、うちでできない?」と伝えたところ、喜んで引き受けてくれたのです。
現在は、週1回、金曜日のエステを担当してくれています。
フィリピンの伝統療法ヒロットの講師であり、ベビーマッサージの講師としても活躍している先生です。
その合間を縫って当院に来てくれているのです。
小さい娘さんがいる中、仕事も家庭もきっちりこなす香織さんは、スーパーウーマンだと思っています。
私がエステティシャン向けセミナーを行っていく上での相談も、いつも乗ってもらっています。
とても心強い存在です。
いつも支えてもらっています。本当にありがとう。

私に独立意識を持たせて下さった恩師Nさんとは、22歳の時に出会いました。
私はラッキーでした。
両親と同年代の恩師と、繰り返しお話をさせて頂くことで、今まで低く見積もっていた人生が開けていったのです。
この出会いがなければ、私の人生はもっと退屈なものだったと思います。
厳しくも、温かく見守って下さいました。
柔道整復師国家資格取得も、『このタイミングで取っておけよ』の一言で始まりました。
当時、私の人生プランでは、『38歳で国家資格取得』と書いてありました。
33歳で取得したので、人生が5年も加速しました。
午前中は柔整の専門学校へ行き、午後はアクアピュアで施術という生活を2010年から3年間続けました。
楽ではなかったけれど、一発合格できたのは、恩師からの励ましがあったからです。
「あんな試験に、落ちたら恥じだな」と言って、いつもプレッシャーをかけてくれていました。
ずっと応援して頂いていました。感謝しております。

2006年の夏。開業が迫る中、私はなにから手をつければいいのか、サッパリわからずいました。
当時は、技術さえあればいいんだ、と思い込んでいました。
技術や理論の勉強ばかりしてきた私にとって、治療業界のトップに君臨する花谷博幸先生との出会いは、見ているレベル、やっていることの基準の違いに、衝撃を受けました。
私の薄っぺらな考え方を、根底から見つめ直す必要性を、突き付けて下さいました。
今もお世話になり、先生からは多くのことを学ばせて頂いております。
2014年のプロジェクトのお陰で、また一歩前進することができました。
花谷先生の主宰するPCCという治療院経営研究会で出会った仲間、先輩方とも交流を持つことができ、常に高い基準を感じながら、毎日を過しております。
そんな場に、身を投じることができて、私は本当に運が良いです。
感謝しております。

最後に、2007年の開業当初から現在まで、足を運んで頂いている皆さまに、私は成長する機会を頂いております。
DSCN62671【通っている皆さんとの、真っ暗闇体験】
DSCN9383_11【通っている皆さんとの、滝行体験】
im_photo2-6【通っている皆さんとの、ブリッジバンジージャンプ体験】

最大の学びは、職場にあります。
職場とは、自分が成長するための場所だと考えております。
私にとっては、【姿勢リフォーム整体】こそが、最大の学びの場だと考えております。
独立早々に感じたことは、「うまく行くも行かぬも、すべて自分の在り方次第である」ということでした。
勤めていた頃は、なにかと人のせいにして済んでいたことに気づいたのです。
たとえば、「今日は雨だから人が来ない」と言っていました。
本当は雨に負ける程度しか自分に魅力がないから、雨の日になると人が来ないのです。
「うまく行くも行かぬも自分次第」という視点でないと経営はできないと、独立してはじめて気づきました。
『雨が降っていることすら自分のせい』と考えるから、あらゆる問題にぶつかった時も前に進めるのです。
雇われ院長をしていた頃には、わからなかったことでした。

2007年の頃と今では、私自身の治療家としてのレベルが違います。
その間、すべての方に喜んでもらうことは、できませんでした。
私の施術が合わないと、来なくなった方もたくさんいます。
それは事実ですが、それで良いのです。
私は、私の施術を必要としてくれる方だけに、全力を注ぎたいと思っています。
これからも学び続ける理由は、その一点です。
「あの人をなんとかしてあげたい」「もっと人をしあわせな気分にしてあげたい」と思ったら、まずは自分が勉強すること以外に方法はないのです。
皆さまの「ここにきてよかった」「射水の施術に出会えてよかった」という声が励みとなり、今日まで続けることができています。
現場で施術をし、これからも自分の成長を積み重ねて参ります。
ご縁あり、足を運んでくれている皆さま。
ずっと支えて下さり、ありがとうございます。

 

射水徹 ストーリー

【先のことは、なにも考えていませんでした。】
勉強のたのしさを知ったのは、カイロプラクティックの学校に行き始めてからです。
22歳でした。
今まで何をやっても続かなかったし、なにをしたいのかよくわからなかったのです。
そもそも、なにも考えてこなかったのです。
人生で初めて、勉強していて「メチャクチャ面白い」と感じました。
私は当時、体を理詰めで考えることが好きでした。
医学書を開いては、神経の経路を辿ったり、筋肉の連結を調べたりして、「おーっ」と学校の図書室で感動していました。
24歳の春。
当時、品川プリンスホテルのテニスセンター内にあったカイロプラクティック院に就職が決まりました。
そこには23歳の頃からインターン生として出入りさせて頂いておりました。
ちょうど院長が退職されるということで、そのまま就職となったのです。
その頃からのご縁で、現在も【姿勢リフォーム整体】まで、今も足を運んでくれている方もいます。
かれこれ、10年以上のお付き合いです。
もし当時の院長があのタイミングで退職されていなければ、私は就職できていませんでした。
もしかしたら、出会うことはなかったかもしれないのです。
ご縁とは、人智を超えた不思議なものです。
そんな奇跡に、感謝です。

【アルバイトの面接は、全滅でした。】
のちに就職することとなる、インターン先のカイロプラクティック院は、ビックリするほど暇な院でした。
インターン生だった私が学校を終えて行くと、院長と副院長がベッドの上でゴロゴロしていることが、多々ありました。
ゴロゴロしている副院長の体で背骨を触る練習をしました。
体の見かたや、カイロプラクティックの技術を練習させてもらいました。
副院長はやさしい方で、嫌な顔ひとつせず、いつも体を貸して下さいました。
とにかく暇な院だったので、私は他の院を見てみたいとも思いました。
暇な院と、忙しい院はなにが違うのかを知りたかったのです。
当時の院長は、他の院に私が出入りすることを嫌いました。
「ここのやり方だけ学びなさい」というスタンスでした。
言っても反対されるので、私はインターン先には内緒で、人気店のアルバイト募集を見て面接に行きました。
整体、リラクゼーションサロンに面接へ行くと、どの院も忙しそうに人が溢れていました。
「うわー、インターン先と全然違う」と衝撃を受けました。
面接で必ず聞かれたのが、「筋肉ほぐしはできる?」ということでした。
もうひとつは、「君のその髪の毛の色、どうにかならない?」でした。
施術に関してなにもできない上に、金髪だった私は、5件の面接すべてその場で、「君は雇えない」と言われてしまいました。
「その髪の色を黒くしてくるのなら、考えてもいいよ」という店長の言葉に、「いや、なおしません」と答える23歳の私は、世間知らずの大馬鹿者でした。
「なにもできないし、金髪だと雇ってもらえないんだな」とわかった私は、最後に五反田にあったリラクゼーションサロンに面接に行きました。
ここまでの経緯をオーナーさんに正直にお話ししました。
「実はここの前に5件面接に行ったのですが、すべてダメでした。理由はなにもできないことと、金髪のことを言われました。最後のつもりでこちらに伺いました。今この髪の色を直す気はありませんし、ほぐしもなにもできません。ですから、給料もいりません。給料はいらないので、裏方の掃除でもなんでもいいから僕を置いて頂けませんでしょうか。ここで勉強したいんです」と話しました。
オーナーさんは、「俺はその髪でもいいよ。時給も渡すよ。金髪で仕事をするってのは、それだけで印象がよくないのは確かだよね。でもね、そこを君の力で覆してごらんよ。君には受付を任せるから、そのままの髪の色でも受付の君に会いたいと思ってもらえるように受付をしてごらんよ。まずは笑顔だよね。君が真剣なのは目を見ればわかるから、いいよ。うちで働きながら、練習もするといいよ。」と、話をしてくれたのです。
次の日からインターン終了後、五反田の人気リラクゼーションサロンの受付に、なれない引き攣った笑顔で立ちました。
受付の他には、ひたすら、掃除洗濯でした。
物凄く忙しいサロンの予約の取り方や、スタッフの動き方、経営のことまで多くを学ばせて頂きました。
自分のインターン先とは、仕事へのスタンスがまるで違いました。
良い緊張感があるのです。
ひとりひとりの動きも早いし、接客も丁寧でした。
「ここで学んだことを応用して、あの暇なインターン先を必ず人気の院変えてやろう。」
23歳の時、ひそかに心に誓ったのでした。

【初任給は、9万円でした。】
皆さんはビックリするかもしれません。
就職したカイロ院のお給料は、9万円弱でした。
9時から21時まで缶詰状態で、週6日勤務です。
私にとっては施術することが最大の勉強でしたし、それが自分の血肉となるわけです。
「9万ももらえちゃうのは、ラッキーだな」という感覚でした。
卒業してもインターン生扱いで、お給料をもらえないのがカイロ業界の常識でした。
最初からある程度のお給料をもらえる所は、ほぐし屋さん系のお店です。
カイロ学校を卒業して、ほぐし屋さん系のお店に就職する人は8割でした。
その方のほとんどは、今この仕事をしていません。
アルバイトで条件の良いほぐし系のお店に勤めれば、最初からやり方も教えてもらえます。
体にもすぐに触れられるというメリットがある一方で、誰にでもできるスキルでほとんどの人は終わるのです。
お給料はいきなり15万以上もらえたりするから、一見おいしいです。
たいていの卒業生は、お給料で職場を選びました。
そのほとんどが辞めてしまうのです。
良いお金がもらえるからやる、というスタンスでは、最終的にツマラナイのです。
「お金払うから、施術させてくれ」くらいが、ちょうどいいのです。
たとえ無休で無給でも、学べることがうれしいという、ある意味、変態ドMな人だけが残る世界なのです。
追究していく感覚が持てなければ、施術年数が増えるだけで、それ以上の意味はないのです。

【24歳の時、体調崩して、手術しました。】
有り難いとはいえ、この給料ではお金も貯まりません。
勉強するにもネックでした。
治療セミナーや、医学書というのは、高額なものが多いからです。
お金が必要でしたから、カイロプラクティック院での仕事前と後に、アルバイトをしていました。
毎朝5時起きで、成田行きのリムジンバスに荷物を積むアルバイトをしていました。
その後、院に出勤し、終了後は、深夜までピザの配達をしました。
院が休みの日は、1日中ピザの配達をしていました。
睡眠時間は2時間が当たり前でした。
3時間寝れたら、万々歳でした。

現在も当院に通っているある方に、ピザの配達をよくしていました。
「僕当時よく○○さん家に、ピザ配達してたんですよ。」
「えーそうなのビックリーッ」
と話になりました。
まさか私が施術をすることになるとは思ってもみませんでした。
ご縁ってとても不思議ですね。

常に睡眠不足でした。
「休みたいなぁ」と思ったことは、何度もあります。
体調の異変に気付いたのはピザの配達中でした。
鼻から、強烈な異臭を放つ液体が出てきたのです。
「クッッサ~ッ」
慌てて鼻をかみました。
今まで嗅いだことのない匂いでした。
その後、異臭の鼻水はしばらく出ませんでしたが、その後ずっと気にしながら配達しました。
次の日病院へ行くと、『手術をしないといけませんね』とお医者さんに言われました。
蓄膿症との診断でしたが、手術が嫌で、放ったらかしにしました。
たまに変な味がするものの、臭い鼻水が出ることもなかったので、無視したのです。
1年後、カイロ学校で施術の練習をしている時に、また臭い鼻水が出た時は、「これはちょっとヤバイな」と思いました。
「人前に出れない」と思ったのです。
人と話している時に出たら最悪だと、怖くなりました。
本当に体調も悪くなってしまいました。
その頃にはすでに、副鼻腔炎が“いくところまでいっちゃった”状態だったようです。
そうお医者さんに言われました。
左側だけだったポリープが、右の副鼻腔にもたくさん見つかりました。
両副鼻腔に膿が詰まっていたのです。
『かなり悪化していますね。すぐに手術しましょう』と、先生に言われてしまいました。
顔にもむくみが出始めていました。
『開けてみないと、良性か悪性かは、判断つきません』と言われました。
「悪性だったら、死ぬのかな」
手術が終わって、目が覚めるまで、不安で仕方なかった。

病気は、自己表現のひとつです。
あの頃、「仕事休みたいなぁ」と頭の中で何度思ったことか。
「今日はたくさん寝たいなぁ」と何度思ったことか。
病気で倒れるという形で、その願いが形となり、叶うのです。
自分の思いと、行動のズレが極限まで行くと、体は壊れます。
病気になるというのはツライことですが、ある種の自己防衛本能であり、有り難い機能でもあるのです。
「ちょっと休みなさい」「自分の生活を、省みなさい」ということなのです。
本当は、そうなる前に自分で気づかなければいけないのです。
「疲れているし、今週はちょっと休みを増やそう」と、自分を見つめることができれば良かったのですが、当時の私は、『休む=悪』と思って生きていました。
体が壊れてくれたおかげで、病院のベッドで考えを改めることができました。
「独立したら、倒れている場合じゃないもんな。」
元気に仕事できることは、本当に有り難いことなのだと、その時はじめて実感しました。
まさか24歳にして、自分が手術をすることになるなんて、思ってもみなかったからです。
ツラい経験でしたが、仕事の取り組み方を考える上では良かったなと、今になって思うのです。
「遊びたい、勉強したい、でも仕事もしないと、お金がない。だったら全部、やっちゃおう。」
そんな生活を続けてきたから、体が壊れて、ストップをかけてくれたのです。
今もいろいろと悩み、ツライな、と感じる時はあります。
でも“あの頃の生活よりは楽だよな”と思えるのです。
そういう意味では、よい経験をしました。
人生、どこか無理しておくべき瞬間が、人にはあるのかもしれません。

【27歳で独立すると、自分の中で明確に決めていた。】
27歳には開業する。
これが当時、私の中で決めた目標でした。
とにかくできることはすべてやろう。
就職してから夢中になってやっている内に、院長よりも私の方が施術をするようになっていました。
暇で仕方なかった院の売上も、いつの間に3倍にまでなっていました。
頭を下げ、お願いして入れてもらった、五反田でのアルバイト経験が役に立ったのです。
「この暇な院を私がどうにかできなければ、ここを辞めて自分で始めてもきっとうまくは行かない。」
そう思って仕事をしていました。
雇われているという安心感がありました。
それで今できないことは、独立したら絶対にできるわけがない。
とにかくできる限りの実験と検証をしようと思ったのです。
いつ潰れてもおかしくないと言われていた院がみるみる息を吹き返しました。
「あんな暇なところにインターン行って勉強になるの?」と、同期からもよく言われていました。
「あんな暇なところに就職するの?だいじょうぶ?」と、聞かれたこともありました。
その時は、悔しかったけど、結局、場所は関係ないのです。
どこにいても、勉強する人はするし、しない人はしないというだけのことです。
環境を変えても、なにも変わりません。
変えるべきは、自分の取り組む姿勢だけなのです。
それでもだめなら、次のやり方で取り組み続けるまでです。
それ以外に、現状を打開する術はないことを、身をもって体験できました。

廃業寸前からの復活で、院のオーナーさんは喜んでくれました。
その後も売り上げを伸ばしていき、その結果が認められ、私が院長として任されるようになりました。
私がインターン生だった頃の5倍にもなっていました。
オーナーさんは満面の笑みです。
すかさず、給料も交渉しました。
基本給は最終的には17万まで上がり、さらに出来高の歩合となり月に22~25万くらいもらえるようになりました。
治療セミナーにも毎月2本ずつは出て勉強しました。
お給料が9万弱の頃から変わらず、続けてきたことでした。
勉強には、お金と時間を最大限つぎ込みました。
直営院は4店舗もありましたが、働いている社員の方たちは、毎月給料をもらえれば、それで満足そうでした。
むしろ、『給料低い』と愚痴っている先輩社員もいました。
もし自分が社長さんだったら、「給料低い」と愚痴って働く社員に給料を多く渡したいと思うだろうか。
給料が低いと愚痴るのならば、自ら動き、上げてもらうにはどうすればいいのかを考えればいいのです。
まずは打ち出した目標の結果を残すことです。
それに愚痴る暇に、アルバイトでも何でもすればいいのに、とも思っていました。
直営院の人たちはみんな、勉強も社員研修のみで、言われたことだけやっている人がほとんどでした。
勉強の話もかみ合わなくなっていきました。
勉強しないと、している人とは話が合わなくなるんだな、と社員の集まりのたびに感じることになるのでした。

【治療業界のトップとの出会い。】
26歳の時、業界の情報誌を読んでいて目にとまった、治療院経営セミナーに行きました。
独立するにしても、どんな準備をしていけばいいのかわからなかったのです。
「経営セミナーって、そんなのあるんだぁ」という感覚でした。
それくらい、大して考えもせずにいたのです。
治療の勉強だけして、施術ができればうまくやっていけるだろうと甘く考えていた私にとって、すべきことの基準が根底から覆されるセミナーでした。
治療家であれば勉強して当たり前であり、施術ができ、治せて当たり前です。
そんな当たり前のことだけで良いのだろうか。
本当に大切なことは、その上で何をしていくのかということです。
セミナー後は、学んだことをひとつずつ形にしていきました。
準備することは山ほどあると、教えて頂いたからです。
動き回ることで不安を感じている暇がありませんでした。
よく「独立する時って、不安じゃなかったですか?」と聞かれます。
不安を感じる時は、行動していない時です。
生きている以上、不安がなくなるということはないように思います。
『不安と生きることは同義である』と、ある本に書いてありましたが、同時に、不安は行動不足からくるものです。
人間も動物であり、動くことが生きることです。
動きの少ない毎日を過ごしていると、不安になるのです。
2015年にした移転も、長い間、躊躇してきました。
先ほど書いたように、怖かったのです。
移転すると決めて動き始めてからは、まったく不安はなくなりました。
やることが多すぎて、不安を感じる暇がなかったのです。
不安で動けないのではなく、動かないから不安なのです。
10年前にセミナーに参加し、ご縁を頂いた花谷博幸先生からは、今も日々啓発を頂いております。
今回の移転も背中を押して下さったのは花谷先生であり、その下に集まった仲間のおかげでもありました。
10年前のご縁があっての、今の私なのです。
そのことがあらためて心に刻まれました。

【開業してから、国家資格取得へ奔走した日々】
2007年5月16日。
ギリギリですが、目標だった27歳で、AQUA PUREカイロプラクティックをスタートさせることができました。
多くの出会い、支えがあり、開業することができたのです。
治療家としてもうひとつの転機は、国家資格取得でした。
2010年から3年間、あらためて治療家としての基盤作りとして、柔道整復師の専門学校へ通いました。
日本においてカイロプラクティックは、あくまで民間資格です。
つまり、無資格者扱いなのです。
カイロプラクティックや整体が、無資格だからいけないとは思っておりません。
実際に、それでずっとやってきました。
カイロプラクターでも高い志のもと、治療セミナーに出席し、結果を出し続けている先生を、私は何人も知っています。
国家資格取得者よりも、ハイレベルな施術をしている先生もたくさんいます。
ある意味、それは当たり前のことです。
保険がきかない分、しっかりとした施術結果を出せなければ、保険なしではやっていけないからです。
実力主義なのです。
正直迷いました。
いまさら資格を取りにいく意味は、本当にあるだろうか。
私は、この先の40年のことを考えました。
あと40年、この仕事をすると考えれば、医療従事者としての最低限の基盤は必要だと感じるようになりました。
これから自分が世に出ていく時に、国家資格は最低基準として必要に感じたのです。
そういう思いがあり、アクアピュアでの仕事をこなしながら、専門学校へ通ったのです。
治療院経営をしながら、資格試験の勉強だったので、何がなんでも、一発で終わらせたいと思って臨みました。
解剖学や生理学など、今までやってきたアドバンテージがあるとはいえ、国家試験のための勉強となると、また違う感覚でした。
学生生活の最初から、私は過去問だけを、徹底的に勉強しました。
繰り返し、教科書と過去問だけです。
授業はほぼ聞かず、ずっと自分で過去問をやりながら、わからないところを教科書で調べる、という単調な作業を繰り返していました。
無駄にできる時間は、ありませんでした。
朝7時にスタバへ行き、8時半まで過去問をやりました。
仕事が終わる21時半過ぎから23時まで開いているベローチェで過去問をやりました。
その単調な繰り返しを、欠かしたことはないと思います。
国家試験は年に1度だけですから、何がきても大丈夫なように仕上げました。

【柔道整復師国家資格、一発合格でした。】
2013年春。
試験中、ビビリな私は、受験番号と名前の記入を、何度も確認していました。
試験が終わってすぐに、解答速報で自己採点をしました。
試験結果は、230点満点中192点で一発合格することができました。
安心して、一気に肩の力が抜けたのを今でも覚えています。
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【2013年3月山野医療専門学校卒業】
DSC_09471【無事、年1回の国家試験も一発クリア】

無事、柔道整復師としてのスタートを切ることができました。
資格というのは、取ったから成功するというものではありません。
むしろ取っただけでは、何にもならないのが資格です。
資格をとっても、辞めていく人も多いのが実際です。
これはどの業界にも通じることだと思います。
資格だけでやっていけるほど、甘くはないのです。
ひとつの基準であり、活かすかは自分次第なのです。
姿勢リフォーム整体は、保険は一切扱っておりません。
今まで同様、あくまで自由診療一本でやっております。
そこには自信を持っております。
私たち治療家は、時間を売るのではありません。
結果を出して当たり前なのです。
これからも高い基準での施術を、皆さんに提供していきます。
その為にも、国家資格というひとつの基準を得たことは、とても大きなことだと感じております。

【姿勢リフォーム整体、スタートしました。】
2015年7月10日、移転する際、名称も変えました。
なぜ姿勢リフォームなのか。
人生は、姿勢がすべてだからです。
姿勢次第で、人生のすべてが好転すると思っています。
のべ5万人を施術してきて行きついた、私の考えの根幹にあるものです。
姿勢とは、見た目の姿勢であり、モノゴトの考え方の姿勢でもあります。
この2つをもって、姿勢なのです。
人の姿勢を変える以前に、私自身の姿勢が一番大切だと考えます。
院の受付にある姿勢リフォーム整体のサインを見るたびに、私自身が日々の過ごし方を見つめ直しています。
治療業を通じて、自らの生き方を問うていこうと感じます。
人生の正解は、無数に存在します。
世界人口70億通りの正解が存在するのです。
生活していると、迷いも多いです。
どうすればいいのかわからないことも、たくさんあります。
正解がわからないからツライのではなく、わからないけど、やってみるからおもしろくなるのが人生です。
ハズレてもいいのです。
不正解を正解にしていくことが、人生をたのしむということだと思います。
簡単なことではありませんが、失敗を受け容れながら前に進んでいくことを、これからもしていきます。
整体の理論や技術もまったく同じなのです。
これから自分は治療家としてどんな存在になりたいのか。
今をひとつの分岐点と考え、希望を胸に毎日チャレンジしていきたいと思います。

 

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